正しさを求めると、音楽はなくなる

ある映画のワンシーンが、ずっと頭から離れない。
『セント・オブ・ウーマン/夢の香り』のラストで、盲目の退役軍人フランク・スレード中佐が、退学の危機に立たされた少年を救うために放った言葉。
「彼には、間違いを犯す権利がある」
この一言が、僕は20年以上、レッスンの現場で支えにしてきた言葉です。
「正しく弾こう」とすると、手が固まる
ピアノやギターを教えていて、何度も同じ場面に出会います。
楽譜通りに弾こうとする生徒さんの手が、急に硬くなる瞬間。
表情から音楽が消えて、「正解の音」を探す目になっていく瞬間。
そして演奏を止めて、こう言うんです。
「すみません、間違えました」
——でも、本当に間違えたんでしょうか?
楽譜には書いていなかったかもしれない。
予定していた指運びとは違ったかもしれない。
でも、その音は、その瞬間に出た音です。
そこに「間違い」というラベルを貼った瞬間、音楽は止まります。
楽譜は「正解」ではなく、「出発点」
20年以上、1000人を超える生徒さんを指導してきて、確信していることがあります。
楽譜通りに弾けることが、音楽ではない。
楽譜は地図のようなもので、目的地ではありません。
地図には書かれていない景色や匂いを感じながら歩くことが、旅の本質です。
なのに、僕たちはどこかで「楽譜=正解」だと思い込んでしまう。
そして、その正解から少しでも外れると、「間違えた」と自分を責めてしまう。
この「正しさ」への固執が、音楽から呼吸を奪っていきます。
フランクの言葉が教えてくれること
『セント・オブ・ウーマン』の最後の場面で、フランクは少年を弁護するために、ある委員会の前に立ちます。
少年は窮地に追い込まれていました。正しい行動を取るか、自分の信念を守るか——その選択を迫られて、固まっていた。
そこへ盲目のフランクが現れて、こう言うんです。
「彼には、間違いを犯す権利がある」
この言葉の本当の意味は、「失敗を許す」ではないと、僕は思っています。
「間違える権利を持っている人間として、彼を扱え」
つまり、人間として尊重しろ、ということ。
「間違えていいよ」では、足りない
レッスンで「間違えていいよ」と言うのは、簡単です。
でも、それだけでは生徒さんの手は緩まないんですよね。
なぜなら、「間違えていいよ」という言葉の裏には、まだ「正解がある」という前提が残っているから。
そうではなくて、
「あなたには、間違える権利がある」
この権利という言葉に、僕は意味を込めています。
権利は、誰かに与えてもらうものではなく、最初からあるもの。
あなたが楽器に触れた瞬間から、間違える権利は、もうあなたのものです。
これを伝えると、生徒さんの手が、ふっと緩むんです。
そして、これは僕自身への言葉でもある
実はこの言葉、自分にも何度も言い聞かせてきました。
動画を作るとき、ブログを書くとき、新しいアプリを作るとき——
僕も「正しいやり方」を探してしまう瞬間があります。
でも、そうやって正解を探している間、何も生まれないんですよね。
間違える権利を、自分に渡す。
それは、無謀になることでも、雑になることでもなく、自分を人間として扱うこと。
フランクの言葉は、生徒さんに渡す言葉であると同時に、自分自身を立て直す言葉でもありました。
「正しさを求めると、音楽はなくなる」
タイトルに置いたこの言葉は、20年指導してきて、たどり着いた一つの確信です。
正しい音、正しいリズム、正しい解釈——それらを追いかけるほど、音楽から「呼吸」が消えていく。
呼吸のある演奏には、必ず間違える権利が含まれています。
それは、自由であるということ。
それは、生きているということ。
レッスンで生徒さんに、いつかこの映画を観てほしいと思っています。
そして、フランクが少年に渡したものを、僕も生徒さんに渡したい。
「あなたには、間違える権利がある」
その権利を握りしめたとき、初めて、本当の音楽が始まります。